本光寺古墳の環頭太刀 (かんとうたち)

室ヶ谷4号墳出土の環頭大刀

1.7世紀初頭(600年代)、庵原(いおはら)の国(大井川から富士川まで)の国造(くにのみやつこ)は、日本武尊(やまとたけるのみこと)に従って東征した武将、吉備武彦(きびのたけひこ)の子で意加部彦(おかべひこ)であった。

 645年の大化の改新により、伊豆、珠流河(するが・富士、沼津)、庵原(いおはら)の3国が合併して、駿河の国となり、庵原郡(いおはらぐん)となったが、庵原国造(いおはらのくにのみやっこ)は、庵原君(いおはらぎみ)とその同族によって継承されてきた。

 

2.本光寺古墳群は、古墳時代終末の600年~700年頃の間に築造されたもので、この意加部彦(おかべひこ)の配下で、旧庵原郡くらいを治めていた豪族(有力者)の墳墓である。

 清水区の庵原(いはら)に大規模な三池平古墳(前方後円墳)があるので、これが庵原君(いおはらのきみ)の墳墓であると思われる。

 

3.1990年(平成2年)、本光寺古墳群の4号墳から7世紀前半代の県下最大級の金銀をあしらった荘厳な環頭太刀が出土した。環頭太刀は古墳時代後期において、鏡に代わって畿内(きない)政権から下賜(かし)された品であり、有力な豪族であったことをしめしている。

環頭大刀柄頭(表)

4.豪族とはいえ、東国の一小豪族にすぎない古墳の主が、当時国内でも珍しい見事な環頭太刀を、どうして所持していたのであろうか。畿内政権、大和朝廷と何か特別なつながりがあったのだろうか。それとも何か大きな手柄でも立てたのだろうか。

 

5.750年(天平勝宝2年)に、一族の三使連浄足(みつかいのむらじきよたり)が、今の蒲原の小金付近の浜で見つけた黄金を、国司を通じて献じたところ、東大寺大仏開眼をひかえていた聖武天皇は、おおいに喜ばれて夢のような破格の恩賞を下賜されたことが、国史をとどめた続日本記にはっきりと記録されている。(752年に東大寺大仏開眼)

 続日本記に「駿河守楢原造東人らが部内の廬原郡多胡浦(田子浦)の浜で獲れた黄金を献じたところ、天皇は大いに感賞され、国司の東人に「勤臣(イソシノオミ)」と言う姓を授けられた。実際に黄金を発見したのは、三使連浄足であった。三使の連は連姓である。

 さらに同年12月9日、東人に従五位上を、黄金発見者の三使の連は無冠から一躍六位下を授けられ、絹40疋、綿40屯、正税2000束を賜り、黄金を出した郡には、その年の田租を免除し、郡司らの位を勧められた。わずか練金、砂金各一分の献上に対して全く夢のような恩賞であるが、国史が堂々と事実を記録しているのも、東大寺大仏鋳造という歴史的背景において理解される」

 

6.さらに5年後の755年(天平勝宝7年)には、一族の生部道麻呂(おふしべのみちまろ)が、防人(さきもり)として筑紫(つくし・九州)へ送られた。そのとき作った歌が万葉集に収められている。(万葉集 防人の歌 巻20 4338 駿河の国の防人 生部道麻呂)

「畳(たたみ)けめ牟良自(むらじ)が磯の離磯(はなりそ)の母を離れて行くが悲しさ」

(むらじが磯の離れ磯のように母と離れて防人として旅に行くのが悲しいことだの意)

装身具類

7.生部道麻呂が防人として送られた5年前の天平勝宝2年(750年)には田子の浦の浜(現在の静岡市清水区蒲原小金、約2キロ東)で獲(え)た黄金を朝廷に献じ多大の恩賞を賜っている。

 特に発見者の三使連(みつかいのむらじ)が無位から一躍、従六位を授けられたことが、国史を記録した「続(しょく)日本記」に記されている。庵原郡(いおはらぐん)民の喜びは大変なもので幸運をもたらした殊勲者三使連をたたえて、住まいのある所一帯の海辺を(今の蒲原・由比の海岸)「連(むらじ)が磯」と呼ぶようになったと思われる。

 現に本光寺古墳から真下に見下す由比の海岸には、東名やバイパス工事で埋め立てられる前まで磯があり、平岩、前岩、大岩と海中に百メートルほど突き出た離れ磯があった。一番沖の大岩だけは、今でも海面に姿を残している。


8.今でも蒲原の小金には昔から黄金(小金)の花が咲いたと言い伝えられている。高さ3メートルほどの大きな岩が渓流のほとりにある。

 

9.このように歌の作者生部道麻呂も黄金を朝廷に献じ多大の恩賞を賜った三使連浄足も、このあたりに住む青年であり、この古墳に眠る豪族達とも深いつながりがあったことと思われる。

 

10.このような考察から、東国のしかも規模からして一小豪族に過ぎない古墳の主が、当時最大級の荘厳な環頭太刀を所持していたのは黄金の発見者三使連浄足に間違いないと思われる。

 

11.このように本光寺古墳群に眠る豪族たちは、まさに庵原地方の有力豪族であり、この豪族達が永遠の地と定めた由比は、東海地方の歴史の中で改めて見直されるべき、重要性を秘めていると言えよう。(発掘調査報告書より)

 

12.江戸前期の儒学者山崎闇斎(あんさい)(1618~1682)の漢詩に
「軽風(けいふう)湯井の壖(ほとり) 丿乀(へつふつ)漁船に棹(さお)さす 借問(しゃもん)す膠鬲(こうかく)莫(な)きや 無情塩窯(えんそう)の煙」

「軽やかな風が由比(湯井)の浜辺を吹いていて、沖には漁船が行きつ戻りつ(丿乀(へつふつ))している。試みに尋(たず)ねる(借問(しゃもん))のだが、このようなところには、もしかしたら膠鬲(こうかく)のような賢人が、隠(かく)れ棲(す)んでいるのではなかろうか。そんなことには無縁のように、塩をつくる竈(かまど)の煙がのどかに立ちのぼっている。」

  膠鬲(こうかく)・・・中国の王朝、周の文王に見出されて重用(ちょうよう)された賢臣(けんしん)。

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